ある夜の事
大陸の中央部に位置するセドリック王国は、その豊かな自然と経済力により、世界でも屈指の強国である。
そしてここ王都テンバーは、広大な領土と莫大な富によって築かれたそのセドリック王国の中心地だ。
荘厳な宮殿、商業の中心を成す市場、煌びやかな街並みが遥か地平まで広がっており、その華やかさは他国にも名を轟かせている。
だが、その栄光にも影の落ちる場所はある。首都テンバーの西側、ウエストサイドと呼ばれる地区は、王宮の膝元とは思えないほど寂れ、どこか退廃的な空気が漂う地区であった。
街からあぶれた者たちや、違法な取引を生業とする者たちが集まり、非合法の物品を売買する露店や、怪しげな歓楽街が広がっている。
月明かりの照らす夜、そのウエストサイドの奥深く、魔道灯の光が揺らめく薄暗い倉庫に、数人の人影があった。
中央に置かれた古びた机を挟み、頬に傷跡が不気味に光るやせ型男と、小太りでヒゲをたくわえた男が対峙していた。
二人の周囲には、それぞれ10人ほどの屈強な護衛が影のように立ち、剣呑な空気が張り詰める。
傷の男が低い声で「ブツは用意できたのか」と問いかけた。ヒゲの男はアタッシュケースを開き、禍々しい光を放つ小瓶を机に並べる。
「もちろんだ。うちのボスがミスをしたことがあるか?」
傷の男は静かに一本を手に取り、魔道光に翳して鑑定魔法を放つ。
「・・・間違いない。相変わらずの純度だ」と呟き、小瓶を戻す。
「へへっ、俺たち『キネルロス』の商品に間違いはないさ」
キネルロスと名乗ったヒゲの男が、ニヤリと笑う。
「これだけの麻薬ポーションがあれば・・・」傷の男は言葉を切り、再び小瓶をじっと見つめた。
その中に封じ込められた悪魔の力に興奮しているようだった。
『魔法麻薬ポーション』通称『魔薬ポーション』。それは近年、裏社会で急速に広まりつつある恐ろしい薬物だった。
麻薬と魔法と融合させたそれは、身体や精神に計り知れない影響を及ぼす。
絶対的な多幸感と共に、肉体強化、精神強化、さらには一時的な若返りなど、奇跡ような効果を与えると言われている。
噂によれば、ポーションを服用した者が、素手で巨大なオーガを倒したこともあるという。
しかし、その代償は恐ろしい。
人間の限界を超えた快楽と副作用によって、服用者は例外なく廃人化してしまう『悪夢の薬』でもあった。
そんな悪魔の薬を調合できるのが、世界で唯一ヒゲの男が属する組織『キネルロス』だけなのだ。
「お前たちのボス・・・どうやってこんな危険な代物を作り出しているんだ?」
傷の男がふと問いかける。
ヒゲの男はその問いに答えず、机の上の金貨袋を手に取ると、その中身を確認し始めた。
「125枚。間違いない」
「約束の額だ、俺らだって間違えた事は無いだろう?」
傷の男は軽く肩をすくめて返答した。
裏社会のやり取りは常に不安定な緊張感があるが、この二人には過去の取引もあり、ある程度の信頼もある。
取引が成立した瞬間、ヒゲの男は満足そうに微笑んだ。
「ああ、また頼むぜ」
軽い言葉とともに、金貨袋を懐にしまい込む。
その瞬間であった。
バタンッ。
大きな音を立て倉庫唯一の扉が開く。
外から流れ込む冷たい空気が、一瞬の弛緩を引き裂いた。
暗がりの中に一人の人影が立っている。
「誰だ!」
頬に傷を持つ男が大きな声を上げる。狂暴な誰何の声にも、乱入者は微動だにしない。
次の瞬間、天井付近の窓から月光が差し込み、その姿を照らしだした。

人影は軽装騎士鎧に身を包んだまだ若い女だった。
胸部の盛り上がりとスラリとした足がスタイルの良さを際立たせている。
腰まで伸びるシルバーブロンドが、月光に照らされまるで銀糸のように輝いていた。
白銀の少女騎士。
その美しさはこの裏路地の倉庫にまったく不釣り合いであり、男達は彼女の姿に一瞬目を奪われる。
ノーブルで高貴な顔立ちと、澄んだサファイアのような蒼い瞳、雪のようにきめ細やかな肌を持つ少女は、冷徹で美しい存在感を放ち、周囲を圧倒していた。
「全員動かないでくださいっ!」
少女騎士の声が倉庫内に響き渡る。
まだ若い声だ、おそらく十歳台後半だろう。
だが、その声は凛と強い。
「わたしは白翼騎士団所属。セレナ・ソティス・ルプスです。現在この倉庫に違法薬物が持ち込まれているとの情報があり、調査に参りました」
少女は堂々と名乗りを上げる。
その声に傷の男の脳裏に一つの噂が浮かぶ。白翼騎士団、この国に四つある騎士団の一つであり、その分隊長セレナは若くして「剣聖」のジョブを得たこの国で最強の剣士であると。
そして、既に絶滅したと言われていた『銀狼族』の最後の生き残りであるとも。
隊長に就任して数年、王宮と王都の治安を守るこの騎士団に壊滅させられた組織は数知れない。
そこまで考えた瞬間、男たちに少女騎士が剣を突きつける。
「あなた達を違法取引の疑いで逮捕します。両手を頭の後ろに組み、地に伏せなさいっ!」
彼女の言葉が響く。
殺伐とした現状に相応しくない、若い少女の鈴を転がすような美しい声が印象的だった。
「ふっ、ふざけるなっ!」
部下の一人が怒鳴り声を上げ、剣を抜く。
「そう、投降の意志は無いのね。お馬鹿さんだこと」
憐れむような、それでいて少し愉しそうな声で少女騎士がつぶやく。
次の瞬間、彼女の銀髪がひらめき、まるで月光のような剣の輝きが一閃する。

「ぐぎゃ!」
少女騎士の剣で男は天井まで跳ね上げられ、意識を失って床に倒れた。殺さないようにしているのだろう、血は流れていない。
別の男が激高して飛びかかるも、彼女は軽やかに踏み込み、刃が腕を切り裂き、敵を床に沈めた。
「もう投降は認めません。全員確保します」
動揺する男たちを一瞥し宣言すると、白銀の騎士は静かに、しかし確実に制圧を始めた。
剣が閃き、白銀の髪が月光に輝くたび、少女騎士の舞うような動きが男たちを次々と倒していく。
艶やかな銀髪が死神の刃のように翻り、刃が振るわれるごとに男たちの悲鳴が響き、倒れていく。
「くっ」と傷の男は取引を諦め、部下が倒れる隙をつき入り口へ駆け出した。
だが・・・。
「ぐおっ!」
入り口に駆け寄った瞬間、野太い腕に弾き返され、一瞬で意識を失った。
ドカドカと数人の鎧姿の男達が倉庫へ入ってくる。
彼らもまた、白翼の紋章を付けた騎士たちだ。
「隊長、周囲の制圧が完了しました」
一人の騎士が報告する。少女騎士は彼に微笑みを返し、力強い声で言った。
「ご苦労様。・・・あとはこいつだけね」
彼女のキリッとした青い瞳が、唯一残っていた小太りで髭の男に向けられた。
「残念ながら、貴方たちの違法行為はここで終わりです」
少女騎士は一歩踏み出し、小太りの男に剣を突き出す。
「投降するなら、命を助けてあげます。この国の法にのって処罰を受けないさい」
少女の声は柔らかだが、決して揺るがない。
「・・・まあ、もっとも麻薬取引は縛り首でしょうけど・・・」
小太りの男は絶望の色を浮かべ、最後の抵抗に逃げ出そうとするが、少女騎士のスピードは彼の想像を遥かに超えていた。一瞬で男を投げ飛ばすと、男の首筋に剣を突きつける。
男は恐怖に満ちた目で彼女を見上げた。少女騎士は男の手を無理やり背中に回し、革の手錠をかける。
制圧は完了した。
「隊長!ありましたやはり魔薬ポーションです」
騎士の一人が、傷の男のカバンを開け中の薬瓶を鑑定する。
「そう・・・やっぱりね」
白銀の騎士はそれを見て眉を顰めると、ヒゲの男に視線を落とす。
「その男を騎士団営所へ、今回こそ必ずボスについて吐かせてみせるわ!」
少女騎士は剣を握りしめていた。今までの魔薬の被害を受けた数々の人々を思い出したのだろう、彼女のサファイアのような蒼い瞳には、怒りと決意が宿っていた。
翌日の昼、銀狼族の少女騎士、セレナは自分の執務室にいた。
整然とした執務室には、本棚と重厚な机が並び、窓からの光に部屋に飾られた特注の白銀鎧と愛剣が輝いている。
セレナはある事情で一族を離れ、幼い頃から王国で育っている。騎士学校を史上最高の成績で卒業すると、次々と実績を上げ今ではこの国の4大騎士団の団長を補佐する分隊長の一人であった。
優等生気質であり、生真面目で責任感が強いが、柔軟さに欠ける面もある。それでも誠実な姿勢と圧倒的な剣の腕前により、若くして多くの部下から絶大な信頼を得ていた。
平和な昼過ぎの光景とは逆に、この部屋の主セレナは少し不機嫌そうに昨日の押収品の報告書を読んでいる。
髪と同じ銀色の美しい柳眉が逆立ち、狼の耳を尖らせて顔をしかめている。

昨夜の大立ち回り、そしてその前の大掛かりな情報収集にもかかわらず、魔薬密売組織の情報が全く掴めないのだ。
いや、薬を『買う方の組織』は分かっている。この国の非合法組織の末端だ。
しかし薬を作り販売した『キネルロス』の情報が全く掴めないのだ。
『キネルロス』が作り出す魔薬ポーションは、圧倒的な効能で闇市場を席巻してしまっている。
今までにも昨夜のように何人かの構成員を逮捕している。
そして拷問や薬物、催眠魔法を使い何とか情報を吐かせようとした。
だが全く情報がつかめない、死ぬまで問い詰めても何も吐かないのだ。
一体何が目的なのか?構成員は何名いるのか?そしてボスの名前すら全く分かっていない。
セレナ達には『キネルロス』という組織名だけが、唯一の情報であった。
コンコンコン
「失礼します」
ノックの後少しの間をおいて、執務室の扉から一人の少女が入室してくる。
赤い短い髪の見るからに活発そうな少女だ。
彼女はカレン。セレナの副官兼秘書官を務めている。
妹のような秘書官の訪問に、セレナは少し表情を和らげる。
「あらカレン、何か進展がありましたか?」
カレンはセレナの言葉に小さく頷き、扉を静かに閉めてから彼女の机に向かって歩み寄った。
彼女の動きはいつも軽快で元気に満ちているが、今は少しだけ緊張感が漂っていた。
「昨日逮捕した密売人から、いくつか重要な情報を引き出しました」
「えっ?本当に?どうやったのですか?」
「ふふっ、あの魔薬ポーションです。あれをアイツ自身に投与したんです」
「ちょっちょっとまって、押収品を勝手に使っちゃだめじゃない!?」
セレナは慌てて端正な顔立ちに困惑を浮かべる。
「物凄い効き目でしたよ、最初はボスを怖がって殺されてもしゃべらないとか言ってたのに、薬が切れたとたん禁断症状でもう何でも吐くわ吐くわ」
「・・・もう」
明らかにやり過ぎた取り調べだが、今までの経緯を思うとある程度は仕方がない。
「・・・それで何が分かったの?」
「ええ、まず『キネルロス』のボスは『グロダ』という名前だそうです。そしてこの魔薬ポーションは『グロダ』が独自に開発したものだそうです」
「独自の?それは本当なのですか?」
セレナが思わず身を乗り出す。
「ええ、奴の話では『グロダ』は天才的な錬金術師であり魔術師だそうです。」
「錬金術師・・・魔術師・・・」
セレナは何か考え込むように呟いた。
今まで『キネルロス』のボスについては僅かな情報しかなかった。
名前も容姿も性別すら分かっていない。ただ、いままでの捕まえた密売人達が情報を漏らすぐらいなら死を選ぶほどに、組織を圧倒的恐怖で支配している。
「そして奴のアジトは王都の住宅街にある古い屋敷だそうです」
「王都の住宅街?そんな近くにアジトが?」
セレナ身を乗り出して、カレンを見つめた。
今までに無い有力な情報に、わずかに興奮している。
カレンは懐から一枚の紙を取り出し、机の上に広げた。そこには王都市街部の地図が描かれており、一箇所に赤い印が付けられている。
「ここです。東地区の街中の古い石造りの屋敷です。ここで『グロダ』本人が魔法麻薬を生産しているとの情報です」
「こんな街中なの・・・?」セレナは地図をじっと見つめ、形の良い顎に手を当てて考え込んだ。
その場所ならセレナも何度か近くを通ったことがある。
古く堅牢で大きな建物ではあるが、広場に近いごく普通の石造りの邸宅だ。どう考えても裏組織のアジトがあるとは思えない。
セレナは机に肘をつき、じっと地図を見つめていた。
たった一人で魔薬ポーションを生成し、裏組織のボスでありながら街中に平然として住む。
確かに普通では考えられない・・・でも、もしかしたら・・・
「・・・もしかしたら、そのボスは『プレイヤー』なのかもしれない」
「プレイヤー!」
セレナの言葉にカレンは驚きの声を上げる。
プレイヤーとは、人間を超えた戦闘能力や自然法則を歪める程の力を持つ『この世界の異端者』である。
彼らは別の世界から来たと語り、時に新たな技術や料理などの文化をもたらすが、多くは欲望に忠実で破壊と混乱を招く災厄とされる。その力は王国や帝国をも揺るがし、歴史に深い痕跡を残してきた。
・・・そして。
銀狼族の村を焼き、セレナ以外の一族を皆殺しにしたセレナの仇敵でもあった。
セレナの脳裏に、幼い頃見た地獄のような光景と、黒目黒髪の男の姿がよぎる。
秀麗な顔を歪ませ考え込むセレナに、カレンが元気づけるように告げる。
「密売人が自白したのは禁断症状で発狂死する直前です。だから、敵のアジトは恐らく嘘ではないと思われます」
セレナはしばらく黙って考え込んだ後、決断を下した。
「わかりました。今夜、少数でその屋敷に突入します。必ずボスを捕まえて、この国に仇なす敵を一掃します」
今度こそ一族の仇を・・・
セレナは気高く端正な顔に、決意を宿して宣言する。
「了解しました、隊長」カレンは力強く答えた。
「偵察隊をすぐに派遣し、周辺の地形と内部の構造を把握させます」
「お願いします、ただし決して敵には悟られないように」
歴代のプレイヤーは、みな人間の限界を超えた戦闘力を持っていた。
だが、一人の人間には限界がある。就寝中を多くの精鋭で襲撃すれば何とかなるだろう。
そしてセレナは、ときにはプレイヤーも凌駕するギフト『剣聖』の称号者なのだ。
「はい、隊長。必ず成功させましょう」カレンの瞳にも強い決意が宿っていた。
セレナは微笑みを浮かべ、軽く冗談を飛ばした。
「ただし、無茶はしないでね。優秀な副官がいなくなるのは困ります」
カレンは笑いながら敬礼し部屋を後にした。
セレナは一人残された部屋で、再び地図の赤い点を見つめた。『キネルロスのボス』その正体を暴き、この戦いを終わらせるために。
月が高く昇り、昼間の賑わいは消え、石畳は月光に照らされ白く輝く。
風に乗ってかすかに響く教会の鐘の音は、深夜の訪れを告げていた。
この街の中心部にある石造りの住宅街もまた、夜の闇に包まれ、いっそう厳粛な雰囲気を漂わせていた。
そんな中、ひっそりと息を潜めながら進む一団があった。
月の光が静かに地を照らす夜、先頭を歩むのは少女騎士隊長セレナだった。
その勝気な面差しは冷たい夜気の中でも凛と冴え、蒼きサファイアのような瞳は闇に呑まれることなく、夜空の星のように強く鋭く光を放っていた。
彼女の横には、短い赤髪を風になびかせるカレンが、緊張した面持ちで付き従っている。
二人の後ろには、鎧に身を包んだ屈強な騎士たちが十名。彼らは誰一人として無駄な動きをせず、まるで影のように静かに移動している。
やがて目的地の石造りの大きな邸宅に到着した。外見は平凡だが、中には裏組織キネルロスのボスが潜んでいる。

「ここが奴の根城か・・・」セレナがつぶやいた。
銀狼族の彼女の目が闇の中で鋭く輝く。
側に立つカレンは、その輝きがまるで本当にシリウスのようだと思った。
夜の闇で最も光輝く星ならば、どのような闇でも見通すだろうと。
建物を見上げながら、セレナは自身の銀狼族とこれから対峙する『プレイヤー』について思いを巡らせた。
銀狼族――白銀の髪と雪のような肌を持ち、人間の体に神狼の特徴を備えた誇り高き戦士の一族。
その鋭い牙は竜をも超える「神噛みの牙」と称され、彼らの誇りと独立心の象徴であった。
・・・だが、最強を誇った銀狼族は、もうセレナしか残っていない。
10年前、幼いセレナの故郷である銀狼族の村は、一人の異質な男によって滅ぼされた。
黒髪黒目の小柄な男が、ニタニタと嫌らしい笑顔を浮かべながら村に踏み込んだ日、誇り高い銀狼族の歴史は終わる事になった。
男は「プレイヤー」だった。
男の圧倒的な力によって銀狼族の戦士たちは瞬く間に屠られた。抵抗の余地すらなく村は蹂躙され、炎に包まれた。
全ての村人をなぎ倒した後、男は厭らしい笑みを浮かべながら、死にかけていたセレナの母を姉を、そして村中の女達を犯していった。
それがそのプレイヤーの目的であった。
幼いセレナは藁の中に隠れ、怒りと憎悪と死の恐怖と自分の失禁の臭いに包まれながら、その地獄をただ見つめるしかなかった。
男の笑みだけが、惨劇の中で炎に浮かんでいた。
彼女が救助されたのは、男が去ったさらに二日後であった。
セレナはすぐに軍の騎士学校に入学し、命懸けの鍛錬で重ね強くなると、以来犯罪『プレイヤー』を狩る事に血道を上げてきた。
その死を超えた情念が、『剣聖』の称号とこれまでにプレイヤー名の2人討伐として結果に表れているのだ。
セレナは決して軽率に動かない。
天才的な戦闘に対する勘と、数々の作戦を成功させてきた経験が、今夜も彼女を冷静に保っていた。
この街の平和のため、ボスを倒すことは絶対不可欠だ。そして、彼女の復讐のためにも・・・。
「隊の配置はどうですか?」セレナが小声で問うと、カレンが興奮を抑えながら答えた。
「予定通り、すでに建物を囲みました。見張り等はいないようです」
クンッとセレナは空気を一嗅ぎする。
優れた銀狼族の嗅覚は、それだけで建物の中の様子をある程度は把握できる。
建物の中には人間一人分の臭いしかしない。
「よし。準備が整ったらすぐに突入します」セレナは頷き、鋭い目つきでアパートの入り口を見据えた。
カレンは、そんなセレナの様子を確認しながら、短剣を一度、軽く振ってみせる。
セレナには及ばないものの、カレンも剣技は一流で、特に短剣においては誰にも引けを取らない。
「隊長、本当に奴がここにいるんでしょうか? 罠かもしれません」
カレンは小さくつぶやいた。
「確かに、罠である可能性はあります」セレナは淡々と答える。
一人分の臭いしかしないと言っても、ゴーレムやガーゴイルなど魔道的な護衛がいる可能性がある。
・・・そして何よりも、相手はプレイヤーの可能性が高いのだ。
「だが、それでも行かねばなりません。ここで奴を逃がせば、さらなる被害が出ます。わたしたちが今夜ここで仕留めます」
その言葉に、カレンは静かに頷いた。彼女もまた、自らの使命を理解していた。
『キネルロス』のボスについて初めての情報だ。油断している今が最初で最後のチャンスであろう。
ここで取り逃せば、より用心深く魔薬をばら撒き始める。だからこそ今夜が正念場だった。
邸宅の入口の前に立つと、セレナは手で小さな合図を送った。
彼女の部下たちは、それを受け取ると音もなく行動を開始する。
まるで風のように騎士たちは建物の周囲に散開し、すべての逃げ道を封じる。何度も訓練された精鋭の連携だった。
「カレン、わたしたちは正面扉から突入します。ボスの居所掴み無力化するのがわたしたちの役割です」
もし本当にボスがプレイヤーであった場合、非常に危険な任務となる。
一般の団員では歯が立たないだろう。
『剣聖セレナ』が戦わなくてはいけない。
その場合での作戦も決めてある、カレンを含めた団員が命懸けで相手を動きを止め、その隙をつきセレナが必殺剣で倒す。
シンプルだが強敵を何度も倒してきた、必殺のフォーメーションだ。
「了解しました、隊長」カレンは短く答え、剣をしっかりと握りしめた。
彼女たちは邸宅の木製の玄関扉の前に立つ。古く重厚なその扉は向こうに待ち受ける運命を隔てているようだった。
セレナは大きく息を吸い、吐く。
そして・・・
ドカンッ!!
扉を蹴り開け、突入する。
室内のカビっぽい空気が頬に触れる。
灯りはない。
中は薄暗く、石造りの壁が湿っているのか、重苦しい匂いが漂っていた。
(敵影なしっ!罠なしッ!)
セレナは素早く確認すると、周囲を見渡す。
玄関には誰もいない、目の前に二階に上がる石の階段がある。
事前に手に入れた見取り図では、一階は中庭と回廊、台所とホールがあったはずだ。
ガシャンっと屋敷の反対側から窓が割られる音が響き、ドカドカと別動隊が建物に侵入する音が響く。
一階は別動隊が占拠する作戦だ。
セレナはすぐに階段を上り始める。カレンもその後に続き、二人は疾風のように階段を駆け上る。
階段を上りきると、廊下が続いていた。廊下には扉が三つ。
二階には書斎と寝室と客室がある。おそらくそのどれかが本命だろう。
「一階クリアっ!」
階下から、一階を占拠した部下の怒鳴り声が響く。
「気を抜かないで、いつ何が起こるかわかりませんっ!」セレナは低く警告を発した。
目の前の三つの部屋の扉はどれも閉ざされている。裏組織のボスがいるとされる部屋は、この中のどれかだろう。
時間的に寝室か!だがっ!
戦闘の興奮で鋭くなった銀狼族の嗅覚は、書斎の奥から微かに人間の臭いをかぎ取る。
セレナは剣を構え、カレンも二振りの小剣を抜き放つ。そして、互いに目配せをし書斎の扉を蹴破った。
ドッカッと扉が破れ、セレナとカレンが勢いよく書斎へ踏み込んだ。
書斎の大きな窓から月明かりが入り込んでいた。
古書とインクの書斎独特の臭い。
天井まで届く書棚には、重厚な革装丁の本が並び、月の光の陰影が圧迫感を生んでいる。
セレナの視線の先、部屋の中央辺りにひょろりとした黒髪の中年の男が立っていた。
彼の顔は蒼白く、頬は痩せこけ、なんの表情も浮かべていない。
深夜に騎士団の襲撃を受けたのに、その顔には驚きも恐怖も無い。

(こいつだ!こいつがボスだ!)
セレナの戦士として直感が告げる。
セレナの蒼い瞳が男を射抜き、男はその視線を黒い瞳が無表情で受け止める。
(黒髪黒目!やはりプレイヤーなのか!?一階の団員達の到着を待ち、全員で包囲するべきか?)
セレナが一瞬の逡巡をする。
だがその刹那。
「ハッッ!」
裂帛の気合の声を上げ、カレンが床を滑るように低く突撃する。
狙いは右の膝辺り。そのまま斬れればよし、避けられても崩れた体勢にセレナが必殺の追撃を打ち込む。
作戦通りの連携である。
「フンッ」
黒髪の男が初めて表情を変え、微かに顔を歪ませると、カレンの一撃を片腕で払いのける。
カレンのナイフと男の肉体から、ギュキンと金属音のような音が響く。
「なっ?!」
カレンが驚愕の声を上げる。
肉が断ち切られ血しぶきが上がるはずが、まるで手ごたえがない。
次の瞬間、男の手がカレンの襟元に伸びた。冷たい指が彼女を掴み、宙に放り投げる。
「ぐっゲぇっ・・・!」
カレンはゴムまりのように天井に叩きつけられ、息を詰まらせる。
ドンっとそのまま床に落下し、微動だにしなくなる。一撃で意識を失っていた。
だが、その隙をセレナも逃さない。
作戦通りではないが、カレンは身を賭して敵の動きを止めたのだ。
セレナのサファイヤのような瞳が光を帯び、彼女の剣に青白い炎の幻影が浮かび上がる。
「銀牙裂風閃!」
甲高い叫びとともに、鋭く輝く魔力の剣閃がカマイタチのように飛び出していく。
風を切り裂くその一撃は、まるで空間そのものを断ち切るかのようだった。
だが、黒髪の男は表情一つ変えず、わずかに身をひねっただけでその攻撃を余裕で避ける。
剣閃は男に当たらず、そのまま背後の大きな木製の机へと突き刺さる。
瞬間、机は盛大な音を立てて崩れ去り、木片と書類が宙を舞った。
机上に散らばっていた古書や巻物が無残に吹き飛び周囲に散乱した。
黒髪の男は、静かにため息をついた。
「・・・酷い事をする、書斎が台無しだ。片付けるのは誰だと思っている?」
男は不機嫌そうに文句を言いながらも、セレナに目を戻す。そして、彼の不機嫌な表情が、ほんの少し驚きに変わった。
「ん?その髪の色、・・・先程の剣閃といい、お前、銀狼族か?」
彼の声には興味が滲んでいた。
「銀狼族はこの時点では、全滅しているはずだがな?」
セレナは何も答えない。油断なく剣を構えながら男を睨む。
必殺の一撃を躱された、間違いなく男はプレイヤーだ。すぐにでも次の作戦を取らなくてはいけない。
このまま斬りあって勝てるか?応援を待つため一度引くか?
だが、その為には男の足元のカレンを回収しなければ・・・・。
男に剣を向け油断なく対峙しながらも、セレナの思考が逡巡する。
「うん・・まて・・お前ひょっとして王国騎士団のセレナか?」
男がマジマジとセレナの顔を覗き込む。
自分の名前が出たことに、セレナの蒼い瞳に僅かな驚きが浮かぶ。
「成る程な、確かに『セレナ』なら生き残っているな」
男がまるで、以前からセレナの事を知っていたかのような言葉を告げる。
「美しいな・・・」
男は戦いの中でセレナに目を奪われた。月光に輝く透き通る肌と、乱れぬシルバーブロンドの長髪が光の束のように美しかった。
「流石『ネームド』というところか。この美しさも納得だな。実に興味深い」
彼の言葉にセレナは眉をひそめた。騎士であり戦士である彼女にとって美しさを褒められることは害しかなかったのだ。
「くだらないお世辞は止めなさい」
剣を向け男を睨みながらセレナは鋭い声で言い放つ。
男は微かに笑みをうかべた。だが、その笑みにセレナの勘は妙な恐怖を感じた。
恐怖を振り払うように、男に核心的な事を問う。
「あなたはプレイヤーなの?」
男は一瞬眉根を寄せて答える。
「いや、おれは・・・・
「銀牙裂風斬!」
高らかな声が書斎に響く。男が言葉を出す瞬間の精神的な隙をつき、セレナはもう一度必殺技を繰り出す。
その瞬間、圧縮された魔力の波動がセレナの剣から剣閃として疾走する。・・・が男の表情は一変せずに構えていた。
「えっ!」
剣閃が飛ばないっ!
セレナの放った一撃は何も起こらずただ剣が一振りされただけで終わった。何かが足りない、力が抜けていく感覚に、彼女は驚愕する。
「な、何!? 発動しない・・・?」
男はゆっくりと右手をセレナの方に延ばし、手のひらをむける。
焦りを感じたセレナは、もう一度力を振り絞ろうとした。
が、身体の動きが急に鈍くなる。
「な、なぜ・・・?」
彼女の思考は混乱し、身体が動かない。動かない身体の感覚は、まるで夢の中にいるかのようだった。男が一歩づつ近づいてくる。
「く・・・」
驚愕の表情を浮かべる暇もなく、男の手がセレナの胸倉を掴んだ。身体が重く力が抜けていく。抵抗しようとしたが、男の力は鉄のように重く強く、逃げる隙も与えられない。
「眠れ」
その声が耳に届くと同時に、男の手に魔力がやどる。セレナの全身に波動が走り、意識が一瞬で霧に包まれていく。
目の前の景色がぐらぐらと揺れ、暗闇が迫る。彼女の心臓が激しく鼓動し、次第に意識は遠くへと引きずり込まれていく。
「・・・俺はプレイヤーではない。・・・俺は・・・俺はゲームマスターだ」
薄まりゆく意識の中で、セレナは意味の分からない男の言葉を聞く。
意識の最後に彼女が見たのは、黒髪の男が嫌らしく微笑む顔だけだった。
・・・銀狼族が滅んだあの日のように。
